2023年10月31日

ホロコースト−5.オスカー・シンドラー−

ホロコーストとは、ナチス政権とその協力者による約600万人のユダヤ人の組織的大規模な迫害および殺戮を意味します。

「ホロコースト」は「焼かれたいけにえ」という意味のギリシャ語を語源とする言葉です。

オスカー・シンドラー(1908〜1974)は、ドイツ人の実業家で第二次世界大戦中ナチスドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、自身のエナメル工場で雇用していた1,200人を虐殺から救った人物です。

オスカー・シンドラーは、1993年スティーヴン・スピルバーグ(1946〜 )監督作品の『シンドラーのリスト(Schindler's List)』で一躍知られるようになりました。

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ユニバーサル シネマ・コレクション DVD 発売日 ‏ : ‎ 2012/4/13


1949年シンドラーと彼の妻はアルゼンチンに移住し、962年イスラエルのヤド・ヴァシェムは戦時中の救済努力を讃えてシンドラーに「諸国民の中の正義の人」という称号を授与しました。

※ヤド・ヴァシェムは、ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)の犠牲者達を追悼するためのイスラエルの国立記念館で、エルサレムのヘルツルの丘にあります※

杉原千畝も1985年にヤド・ヴァシェムより「諸国民の中の正義の人」の称号を贈られています。

切手は2008年ドイツ発行の「オスカー・シンドラー生誕100年切手」で、オスカー・シンドラーの名前とともにタルムードの言葉『一人の人間を救う者は世界を救う』が記載されています。


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2023年10月28日

ホロコースト−4.命のビザ杉原千畝−

1939年杉原千畝(1900〜1986)は、リトアニアの在カウナス日本領事館の領事代理に着任しナチスドイツの迫害から国内脱出をはかるユダヤ難民へ自分の独断でビザを発給し多くのユダヤ人を助けています。

1940年7月18日の朝、ビザの発給を求めて多くのユダヤ人難民がリトアニアの在カウナス日本領事館に続々と押し寄せてきました。

この時の様子を杉原は、『6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってきたことから、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った』と、述べています。

杉原が発行したビザは2139枚で、そのビザにより日本へ行き命の助かったユダヤ人は約6000人です。

1985年1月、イスラエル政府からユダヤ人を救った人だけに贈られる「諸国民の中の正義の人」の称号を授与され、「ヤド・バシェム賞」を受賞していますがこれらの賞を受賞したのは日本人では一人だけです。

現在でも、エルサレム郊外のベート・シェメッシュの丘には千畝の顕彰碑が建っています。

外務省訓令に違反して、ユダヤ人難民にビザを発給し続けた杉原は戦後の1947年、外務省を辞めさせられています。

リトアニアの人々には千畝(ちうね)という名前が発音しにくかったことから、千畝は、呼びやすいように名を音読みにして「SEMPO:せんぽ」と名乗っていたため、リトアニアでは「SEMPO SUGIHARA:センポ スギハラ」という名前が定着していました。

戦後、リトアニアの人々が「センポ スギハラ」にお礼を言いたいと日本の外務省に問い合わせても、本名ではなかったため、外務省はそのような外交官はいないと答えるしかなかったとされていますが、当時のリトアニアの在カウナス日本領事館の領事は杉原千畝であったことはわかっていたはずですが、これをあえて存在しないと回答したのは当時の外務省の事なかれ主義・怠慢としか言えないと私は思っています。

彼の名誉回復は実に戦後46年目にやっと回復されることになります。

オスカー・シンドラー(1908〜1974)は、ユダヤ人を自分の商売に使っていたことからして純粋にユダヤ難民を救済したという意味では杉原の行為は桁違いに大きいと思います。

杉原を扱った代表的な作品は映像としては、以下が挙げられます。

1.テレビドラマ『命のビザ』(1992年12月18日、フジテレビ、主演:加藤剛)

2.ドキュメンタリー番組「その時歴史が動いた『6000人の命を救った外交官 杉原千畝 ビザ大量発行決断の時』」(NHK、2001年2月17日)

3.テレビドラマ『日本のシンドラー杉原千畝物語 六千人の命のビザ』(2005年10月11日、読売テレビ、主演:反町隆史)

4.映画『杉原千畝 スギハラチウネ』(2015年、日本、主演:唐沢寿明)

2015年10月13日、トアニア・カウナスでワールドプレミアが行われ、杉原の家族やカウナス副市長が出席し、450席の劇場は満席で50人の立ち見が出た他、上映終了後には5分間のスタンディングオベーションが起き絶賛されています。

リトアニア政府はカウナスに昔のカウナス日本領事館のあった通りを『スギハラ通り』と命名しています。


『杉原千畝 スギハラチウネ』(2015年、日本、主演:唐沢寿明)DVD


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切手は1998年イスラエル発行の「ユダヤ人を救った5人の外交官切手の初日カバー」で、切手右から二人目に杉原が描かれています。

この初日カバーには、切手の上から押される発行当日の消印の他に、5つのスタンプ跡が印刷されていますが、このスタンプこそ彼ら5人の外交官が発行し続けたビザのスタンプです。

杉原の描かれた切手の下部のタブにも彼の発給したビザの一部とスタンプが描かれています。


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切手は1998年イスラエル発行の「イスラエル建国50年記念連刷切手」で、左からジョルジョ・ペルラスカ(イタリア)、アリスティデス・デ・ソウザ・メンデス(ポルトガル)、カール・ルッツ(スイス)、杉原千畝(日本)、セラハティン・ウルクメン(トルコ)の5人の外交官が描かれています。


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切手は2000年日本発行の「20世紀デザイン切手シリーズ、第9集」の中に収められた杉原千畝の横顔と共に発給したビザの一部分、イスラエルより送られた諸国民の中の正義の人」の称号を授与された「ヤド・バシェム賞」のメダルが描かれています。


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切手は2002年ギニア発行の「著名人切手」12枚の中の1枚で、杉原千畝が描かれています。


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切手は2004年リトアニア発行の「著名人切手」で、杉原千畝の肖像写真が描かれています。


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切手は2011年モザンビーク発行の「杉原千畝没後25年記念小型シート」で、杉原千畝が描かれています。


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切手は2011年日本発行の「杉原千畝フレーム切手」で、杉原千畝・命のビザなどが描かれています。



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2023年10月21日

ホロコースト−3.東洋のシンドラー20000人のユダヤ人を救い、北海道を守った樋口季一郎陸軍中将−

樋口中将は満州国ハルビン特務機関長だった1938年3月、迫害を逃れ、ソ連を通過してソ連・満州国境オトポール(現ザバイカリスク)で立ち往生していたユダヤ人難民に食料や燃料を配給し、満州国の通過を認めさせた樋口季一郎陸軍中将のことは先に紹介しました。

彼にはもう2つの偉業があります。

1.キスカ島奇跡の撤退

アッツ島・キスカ島は、昭和17年6月に、ミッドウェー作戦の陽動作戦として、海軍の要請で占領したものです。

日本帝国海軍はミッドウェー海戦で大敗し、そして翌年5月には、アリューシャン列島でも米軍の本格的な反撃に直面します。

樋口中将は、アッツ・キスカからは早急に撤退させるか、そうでなければ強力な増援部隊を送るように大本営に強く働きかけますが、この申し出を、海軍が「燃料不足」などの理由からけんもほろろに却下してしまいます。

大本営からアッツ島守備隊への玉砕命令が下ったとき、樋口中将は号泣したと言われています

そこで樋口中将は、アッツ島の将兵を見殺しにするのならば、"せめてキスカ島からの撤収作戦には海軍が無条件の協力を約束せよ"と大本営に頑強に迫ります。

この樋口中将の強硬な主張があればこそ、「世界戦史上の奇跡」ともいわれるキスカ撤退作戦が実現したのです。

この物語は、1965年東宝で監督丸山誠治、三船敏郎・山村聡・志村喬出演で『太平洋軌跡の作戦キスカ』として映画化(DVDもあります)されています。

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2.北海道、南樺太と千島列島の「北の守り」

樋口中将は、北海道、南樺太と千島列島の北の守りを担当する札幌の第5方面軍司令官だった1945年8月17日深夜、千島列島北端の占守島(しゅむしゅとう)に侵攻したソ連軍に対して自衛戦争を指揮しています。

樋口中将は、即座に判断を下し『断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ!!』と命じます。

それはポツダム宣言の受諾を決め、終戦の詔書が出された後の1945年8月18日、大本営の停戦命令を無視して独断で戦いました。

ソ連のスターリン首相は、日本が降伏文書に署名する前にヤルタで密約した樺太と千島列島、さらに北海道まで占領し、既成事実にするつもりだったのです。

樋口の指示による抗戦で、占守島攻防は同日まで続き、ソ連は千島列島占領が遅れ、北海道侵攻は出来なくなりました。

北海道占領を断念したスターリンは同28日、北海道上陸予定だった南樺太の部隊を択捉島に向かわせ、国後島、色丹島、歯舞諸島を無血占領し、北方四島の不法占拠は現在に至っています。

樋口中将の反撃の決断がなければ、ソ連が北海道に侵攻し、日本が分断国家となっていた可能性が極めて高かったのです。

日本を分断国家の悲劇から救った樋口中将のこの判断に、すべての日本人は感謝すべきです。

切手は1930年日本発行の「第二回国勢調査記念切手」で、当時は台湾・朝鮮・南樺太・そして元々日本固有の領土であった千島列島が描かれています。

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※千島列島及び北方領土は、日露戦争の結果により日本の領土になったと誤解されているようですが、日露戦争の影響を受けずに以前から日本の領土でした※

※1875年日本はロシアと樺太千島交換条約を結び、樺太を放棄する代償としてロシアから千島列島を譲り受けました※

※この条約では、日本に譲渡される千島列島の島名を一つ一つ挙げて、その島は得撫島以北の18の島々で、択捉島以南の北方四島は含まれていません、こことからしても北方四島は元々日本固有の領土なのです※

※第2次大戦の敗戦により、サン・フランシスコ条約で日本は千島列島と北緯50度以南の南樺太の権利、権原及び請求権を放棄しましたが、放棄した千島列島に日本固有の領土である北方四島は含まれていません、北方四島は元々日本固有の領土あり、ロシアは不法に占拠しているのです※

切手は1987年日本発行の「登記制度100年記念切手」で、60の数字の横付近に北方領土が描かれています。


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切手は2005年日本発行の「ふるさと切手北海道」で、切手左からハマナス・ラッコ・チシマザクラ・エトピリカが描かれ切手4枚すべてに北方領土が描かれています。


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2023年10月14日

ホロコースト−2.東条英機とオトポール事件-

1933年、ヒトラー内閣成立後、『反ユダヤ主義的措置の実行に関する指令』が発せられ、ドイツに住むユダヤ人への迫害が始まりました。

その後ユダヤ人の迫害は日増しに激しくなり、ユダヤ人はポーランドを目指し脱出しましたが、ポーランド政府は受け入れに難色を示したため已む無くソ連へ向かうことになってしまいました。

しかし、ソ連もユダヤ人難民の受け入れを拒否していたため、ユダヤ人は満州国への入国を希望し、シベリア鉄道に乗り満州とソ連の国境まで来ていましたが満州国も日本とドイツの関係を気にして入国ビザの発給を拒否してしました。

1938年3月 満州国とソ連の国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポールという街に多数のユダヤ人が現れました。

酷寒のオトポール駅でユダヤ人たちは、行き先をなくし凍えていました。

これを知った極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士(1885〜1971)は樋口喜一郎少将(1888〜1970)に救済を懇願しました。

陸軍士官学校の同期であるユダヤ専門家安江 仙弘大佐(1888〜1950)とともに、樋口季一郎陸軍少将は難民救済を決断し、即日、食料と衣類、燃料の援助を迅速に開始しそして満州国への入国の斡旋、入植や移動の手配を行いました。

その後、樋口は南満州鉄道総裁・松岡洋右(1880〜1946)に交渉し、特別列車の要請をした、松岡はこの要請を受けて特別列車を上海まで走らせユダヤ人を救助することになります。

これが以後ユダヤ人の間で『ヒグチ・ルート』と呼ばれることになります。

その後、ユダヤ人難民の数は増え続け、満州から入国したユダヤ人の数は1938年だけで245名だったものが、1939年には551名、1940年には3,574名まで増えた。

当時日本はドイツと『日独防共協定』を結んでおり、当然のことながらドイツ外相の抗議書が日本に出され、日本軍部の中で樋口の独断行動が問題になりました。

陸軍の親ドイツ派は樋口を批判し、関東軍参謀長の東條英機中将(1884〜1948)が樋口を司令部に呼びつけ、ユダヤ人脱出ルートを閉鎖することを指示することになります。

この際樋口は東条中将に「ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめをすることは正しいと思われますか」と説得します。

樋口の話に納得した東條英機は、ユダヤ人救出に対して全責任を請け負い、その後のドイツ外務省の抗議に対し、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴しています。

その後、ユダヤ人難民の数は増え続け、満州から入国したユダヤ人の数は1938年だけで245名だったものが、1939年には551名、1940年には3,574名まで増え続けることになります。

戦後ソ連は樋口を戦犯に指名しました。

この動きを察知した世界ユダヤ人会議は、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、世界的な規模で樋口救出運動が展開した結果、ダグラス・マッカーサー(1880〜1964)はソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護します。

エルサレムの中心地にユダヤの偉人の功績を永遠に顕彰し刻む"ゴールデンブック"というものがあります。

そこにはモーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタインの名前が刻まれ、4番目に「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」と刻まれています。

その次に樋口の部下であった安江仙江大佐の名も刻まれています。

しかし東条英機の名前は刻まれていません。

ユダヤ人教育家、ラビ・マーヴィン・トケイヤーはハルビンのユダヤ民族協会を通してユダヤ人社会との交流があった樋口、安江を救済しました。

一方、東條はユダヤ人と親交を結ぶ機会がなかったことから、ユダヤ人救済のことには触れられていません。

仮にユダヤ民族協会との交流があれば、ゴールデンブック入りは勿論の、東京裁判の判決に対し世界中のユダヤ人から助命嘆願書がマッカーサーのもとに寄せられた思われます。

ナチスの迫害からユダヤ人を救済した人物としては、シンドラー・杉原千畝としては有名ですが、日本軍人の樋口季一郎や安江仙江の名前を知る人は少ないと思います。

まして東京裁判で戦犯として裁かれた東条英機が、樋口季一郎の進言を受けてナチスドイツと対等に渡り合い、ユダヤ人を救済したことを知る日本人は更に少ないと思います。

当然のことながら樋口季一郎の行為も東条英機の同意承認がなければ行われなかったでしょう。



切手は1995年トーゴ発行の『終戦記念シート日本のリーダ小型シート』の中に収められた1枚で東条英機の肖像が描かれています。


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切手は2018年中央アフリカ発行の『硫黄島返還50周年小型シート』の中に収められた1枚で硫黄島の戦い光景と旭日旗とともに東条英機の肖像が描かれています。

東條英機の肖像の左上にHirohito 1901-1989と記載されているのは、東條英機の名前と生年没後年が間違っているのか、昭和天皇の肖像を使うべきところ東條英機を間違って使ったのかの真偽の程は謎です。

Hideki Tojo 1884-1948

残念なことには、樋口季一郎と安江、仙江の切手は発行されていません。


東條英機.中央アフリカ.2018.jpg


切手は1939年満州帝国発行の「鉄道10000Km突破記念切手」で、満州鉄道の路線地図と満州鉄道の機関車あじあ号が描かれています。



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2023年10月07日

ホロコースト−1.ユダヤ人を虐殺から救った日本人軍人−

ホロコーストとは、第二次世界大戦中にナチス党率いるナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺を言います。

今回は難民として逃れてきたユダヤ人を人道的立場から助けた日本人を紹介します。

オスカー・シンドラー(1908〜1974)や杉原千畝(1900〜1986)はよく知られていますが今から紹介する日本人軍人のことは、あまりにも知られていません。

1938年3月8日、満州西部の満州里駅の対岸に位置するソ連領オトポールにドイツで迫害を受けたユダヤ難民が押し寄せて来ました。

ソ連はユダヤ難民の受け入れを拒否していたので、難民は満州国への入国を希望しますが満州国は日本とドイツの関係を気にして入国ビザの発給を拒否します。

この時のハルビン特務機関長であった樋口季一郎少将(1888〜1970)は、ユダヤ協会と交流があったことから、当時の極東ユダヤ人協会の会長アブラハム・カウフマン(1885〜1971)は樋口に難民の救済を訴えました。

樋口は「人道上の問題」としてユダヤ難民の受け入れを独断で決め、当時南満洲鉄道総裁だった松岡洋右(1880〜1946)に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させますい。

現場では樋口の部下である安江仙弘(最終階級は陸軍大佐)(1888〜1950)が奔走しています。

※ユダヤ民族が大切にする聖典の「ゴールデン・ブック」にユダヤ民族が2人の日本人に感謝の意を表するために、特にその判断を下したと考えられるとして、樋口季一郎(上から4番目に「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」)と安江仙弘の名前が記載されています※

我々がよく知っている杉原千畝の命のビザの話は、このオトポール事件の2年以上も後のことなのです。

さらに日本はドイツの反ユダヤ暴動をうけて1938年12月の五相会議(内閣総理大臣・陸軍大臣・海軍大臣・大蔵大臣・外務大臣)でユダヤ人を差別しないことを閣議決定しています。

樋口季一郎の独断は大きな問題となり、ドイツからリッペントロップ独外相から、オットー駐日大使を通じて厳重な抗議が行われました。

当時の外務省、陸軍省でも樋口の独断を問題視する声が続出しました。

樋口は関東軍司令部に出頭し、当時関東軍参謀長であった東條英機(1884〜1948)と会い以下のように発言しています。

「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか」

東條英機はドイツの抗議に対して「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴しました。

樋口の行為を認め何の処罰もしていません。 

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