2023年11月25日

ホロコースト−12.レジャーキの大虐殺−

1942年、ドイツ占領下のチェコスロバキアで1942年5月の親衛隊兼警察大将ラインハルト・ハイドリヒ暗殺に対する報復として武装親衛隊により全滅させられたチェコの村で、1942年6月10日にリディツェの村は破壊され、住人の14歳から84歳までのすべての男性は射殺され、村全体いを焼き払いました。

この村は戦後再建されることはなく追悼碑のみ残っているだけです。


切手は1972年チェコスロバキア発行の「レジャーキ破壊30周年記念切手」で、レジャーキ村破壊が描かれています。


レジャーキの大虐殺.チェコスロバキア.1972.jpg




切手は2012年チェコ共和国発行の「リディツェ虐殺70周年記念切手」で、レンガに有刺鉄線で"LIDICE"(レジャーキ)と描かれています。


レジャーキの大虐殺.チェコ共和国.2012.png
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2023年11月21日

ホロコースト−11.リディツェの虐殺−

リディツェの大虐殺(Ratibor Massacre)は、リディツェ(Lidice)というチェコの村で引き起こされました。

レジスタンスがナチス親衛隊総督ラインハルト・ハイドリヒ(1904〜1942)を暗殺した報復として、1942年6月、ナチスは村の成人男性全員を射殺し、女性と子供を死の収容所に送りリディツェを壊滅させました。

ナチス・ドイツに破壊されたことは全世界の人が知っていて永遠に忘れることはないでしょう。


切手は1947年チェコスロバキア発行の「リディツェ虐殺5年記念切手」で、悲しむ女性の顔が描かれています。


リディツェ虐殺.チェコスロバキア.1947.jpg


切手は1962年東ドイツ発行の「リディツェ虐殺20年記念切手」で、いばらの冠を持つ十字架とバラが描かれています。



リディツェ虐殺20年.東ドイツ.1962.jpg



切手は1972年チェコスロバキア発行の「リディツェ破壊30年記念切手」で、破壊された村が抽象的に描かれています。



リディツェ破壊.チェコスロバキア.1972.jpg
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2023年11月18日

ホロコースト−10.カチンの森虐殺−

カチンの森虐殺(カチンの森事件とも言う)とは、第二次世界大戦中にソ連軍がポーランド人将校らを大量虐殺した事件です。

1940年3月5日、ソ連共産党政治局の決定により、ソ連の秘密警察であるNKVD(後のKGB)が、ソ連内収容所に抑留されていたポーランド人将校らを虐殺し犠牲者の遺体はカティンなど3ケ所に埋められました。

ソ連は1939年9月にポーランドに侵攻し、約1万5000人のポーランド将校を捕虜にしまし、そのうち400人を除く大部分が所在不明となりました。

当時のポーランドはソ連とドイツに分割占領されており、両国はお互いが犯人だと主張しました。

1943年2月、西ロシアのカチン地区を占領中のドイツ軍は偶然ポーランド将校数千名の遺体を発見し、米英ソは協調してヒトラー犯行説を主張、事実を隠蔽しソ連の一次資料も90年代まで封印されていました。

しかし1990年なってやっとソ連政府によって犯罪の責任を認め公式に謝罪が行われました。


切手は1990年マーシャル諸島発行の「第二次世界大戦切手」の中の一枚で、両手を縛られて埋められた光景が描かれています。


カチンの森.マーシャル諸島.1990.jpg



切手は1995年ポーランド発行の「カティンの森虐殺切手」で、森林のゴミの上に置かれた 1939年のポーランド軍の軍服ボトムが描かれています。


カチンの森事件.ポーランド.1995.jpg


切手は2010年ポーランド発行の「カティンの森事件70周年記念小型シート」で、犠牲になったポーランド人将校のボタンで作られた十字架がデザインされています。


カチンの森小型シート.2010.ポーランド.jpg



切手は2015年ポーランド発行の「カティンの森事件75年記念切手」です。


カチンの森事件.2015.ポーランド.jpg
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2023年11月16日

ホロコースト−9.ニュルンベルク国際軍事裁判−

ニュルンベルク国際軍事裁判は、第二次世界大戦後の1945年11月20日から1946年10月1日にかけて、ドイツのニュルンベルクで行われた、ナチス・ドイツの戦争犯罪と人道に対する犯罪を裁くための国際軍事裁判です。

ニュルンベルクは、1933年以来、国民国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が毎年の大会を開催した場所で、更に1935年にはナチス=ドイツがユダヤ人絶滅を宣言したニュルンベルク法の制定された場所であった。

このため連合国がこの地を選んだのはナチスの過去を断罪する強い決意表明であったとされています。

この裁判は、連合国(アメリカ、イギリス、フランス、ソビエト)によって組織され、22人のナチス・ドイツの指導者が起訴されました。起訴された罪状は、平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪の3つです。

裁判は、100日間にわたって行われ、膨大な証拠に基づいて審理が行われました。その結果、12人が有罪判決を受け、うち10人が絞首刑に処されました。

ニュルンベルク国際軍事裁判は、戦争犯罪や人道に対する犯罪を裁くための国際法の基礎を築く画期的な裁判でした。この裁判によって、戦争犯罪や人道に対する犯罪は、国際法の下で罰せられるべき犯罪であると国際社会に認知されるようになりました。

ニュルンベルク国際軍事裁判の主要な成果は、以下のとおりです。

・戦争犯罪や人道に対する犯罪を裁くための国際法の基礎を築いたこと

・ナチス・ドイツの戦争犯罪や人道に対する犯罪を世界に明らかにしたこと

・戦争犯罪や人道に対する犯罪を二度と繰り返してはならないというメッセージを世界に送ったこと

ニュルンベルク国際軍事裁判は、国際法の歴史において重要な裁判であり、その影響は現在も続いています。

切手は2016年ロシア発行の「国際ニュルンベルク軍事法廷70周年記念小型シート」で、切手には裁判か開かれたホール、シート面には地に左からソ連、イギリス、米国、フランスの国旗、ソ連正判事イオナ・ニキチェンコ(左上)、ソ連主席検事ロマン・ルデンコ(右下)、裁判所と訴訟文書などが描かれています。


ニュルンベルグ裁判.ロシア.2016.jpg
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2023年11月11日

ホロコースト−8.水晶の夜−

水晶の夜(クリスタルナハト)とは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動、迫害を言います。

水晶の夜という名前は、破壊された店舗のガラスが月明かりに照らされて水晶のようにきらめいていたことに由来しています。

ユダヤ人に対する暴力、ユダヤ人店舗の略奪、破壊が行われユダヤ寺院のシナゴーグも襲撃、放火され、店舗やシナゴーグの破壊されたガラスが夜の月明かりに照らされて「水晶」のようだったので「水晶の夜(クリスタルナハト)」と呼ばれている。

当時、多くのドイツ人がユダヤ人迫害に加担、もしくは見て見ぬふりをしていました。

「水晶の夜」ではドイツとオーストリアの1400のシナゴーグ(ユダヤ教の教会)が襲撃され、そしてこのことからユダヤ人の多くが不当に逮捕されて強制収容所に移送されていくことになります、これがホロコーストにおけるユダヤ人への組織的暴力の始まりだったとされています。

暴動の主力となったのは突撃隊(SA)のメンバーであり、アドルフ・ヒトラーや親衛隊(SS)は暴動を止める事なく、傍観者として傍観していました。

これはナチス政権による官製暴動とも言われています。

この事件により、ナチスドイツにおけるユダヤ人の立場は大幅に悪化し、後に起こるホロコーストへの転換点の一つとなった。

ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(1900〜1945)は、ナチスが政権を把握した後全ドイツ警察長官やヒトラー内閣内務大臣などを歴任し、ドイツの警察権力を掌握し、第二次世界大戦中にはヨーロッパのユダヤ人に対してホロコーストを組織的に実行した人物です。

ヒムラーは強力な秘密国家警察「ゲシュタポ」の形成に一役買い、これらの私服警察は、ナチス政権の法律や政策に従わない者や政敵を見つけて逮捕するため、ドイツ国内の至る所で冷酷かつ残酷な方法を使用しました。

ホロコーストで殺害されたとされるユダヤ人は600万人に上るとされています。

ヒムラーは第二次世界大戦終戦時に米国との講和交渉を試みたが失敗し、捕虜になった後に自殺しています。

切手は1988年イスラエル発行の「水晶の夜50周年記念切手」です。


水晶の夜.イスラエル.1988.jpg


切手は1990年東ドイツ発行の「水晶の夜50周年記念切手」です。


水晶の夜.東ドイツ.1990.jpg



切手は2016年マダガスカル発行の「第二次世界大戦小型シート」で、切手にはヒムラーが描かれ、シート時には捕虜収容所を見回るヒムラーとその部下、当時のニュース映画、ナチスドイツのプロパガンダーポスターなどが描かれています。


ヒムラー.マダガスカル.2016.jpg

posted by 血液の鉄人 at 07:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 医学切手 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする