2024年08月31日

梅毒に悩んだ著名人−23.番外編その2.梅毒という名称の命名者−

フランス軍の帰還とともに梅毒が流行したため、この病気は「フランス病」という名でも知られていて、梅毒を意味する "syphilis(シフィリス)" という単語が登場するのは1530年で、イタリアの医師・詩人ジローラモ・フラカストロ(1478〜1553)によって初めて用いられました。

彼は伝染病のコンタギオン説(接触伝染説)を提唱したことでも知られています。

当時梅毒は、ナポリに侵攻して病を得たフランス人は「ナポリ病」「スペイン病」などと呼び、フランスから広まってきたので、周辺諸国は当然ながら「フランス病」と呼んでいました。

またポーランド人は「ロシア病」、ロシア人は「ポーランド病」、トルコ人は「キリスト病」と呼ばれ、日本でも「唐痘」とか「ポルトガル病」と呼ばれていました。

フラカストロは1530年に『梅毒あるいはフランス病』(Syphilidis, sive Morbi Gallici)を著し、伝染病の病原菌の観念を述べています。

この中でシフィリスという豚飼いがアポロ神を馬鹿にしたため罰を受け、全身に「汚いただれ」ができたという。つまりSyphilis(シフィリス)という病名は、梅毒に罹患した豚飼いの名前に由来しているとされています。


切手は、1955年イタリア発行の「国際内科学会議記念切手」で、フラカストロの肖像とローマ時代のヴェローナの競技場が描かれています。


フラカストロ.イタリア1955.jpg


切手は2003年サンマリノ発行の「ベローナフィル100年記念切手」で、ピエトラ橋とともにフラカストロの肖像が描かれています。


フラカストロ.サンマリノ.2003.jpg
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2024年08月24日

梅毒に悩んだ著名人−22.番外編その1.梅毒の起源−

梅毒がはじめてヨーロッパにもちこまれたのは、1493年、クリストファー・コロンブス(1454頃〜1506)の第1回アメリカ探検隊の隊員が西インド諸島の原住民との性交渉により感染し、その感染者が帰国後傭兵となりイタリア戦争を期にフランス、イタリアに広がり、ナポリ病またはフランス病と敵国の名を病名としましたが、自由を謳歌するルネサンス時代であったため全ヨーロッパに拍車をかけて急速に広まっていきました。

ヨーロッパで最初に記録された梅毒のアウトブレイクは、1494年から1495年にかけて、フランスの侵攻を受けていたイタリア・ナポリで起こりました。

梅毒の起源についての論争としては、ヨーロッパ人が新世界を往来するようになる以前から、アメリカ大陸の先住民の間に梅毒が存在したことについては強い証拠が存在する一方で、梅毒が数千年にわたって全世界に存在していたのか、それともコロンブス以前の時代にはアメリカ大陸に限定されていたのかについては今も議論が続いています。

切手は1992年スリランカ発行の「コロンブスのアメリカ発見500年記念小型シート」で、切手には船団(左上)、アメリカ初の上陸(右上)、サンタマリア号(左下)、帰国後の謁見(右下)、シート面にはコロンブスの横顔が描かれています。



コロンブス.スリランカ.1992.jpg


切手は1992年ブルガリア発行の「コロンブス記念小型シート」で、中央の切手にはコロンブス、シート面には上陸した船員と現地の住民が描かれています。



コロンブス.ブルガリア.1992.jpg

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2024年08月22日

二十四節気−16.処暑−

2024年8月22日は処暑です。

昼間はまだ暑い日が続きますが、この日を境に、気温が下がり、秋の気配が感じられるようになり、朝夕には涼しい風が吹き、心地よい虫の声が聞こえてきます。

この時期子どもたちの健やかな成長を願う地蔵盆が行われます。

また目で楽しむ秋の七草の季節でもあります。

※秋の七草とは、萩(ハギ)、薄(ススキ)、葛(クズ)、撫子(ナデシコ)、女郎花(オミナエシ)、藤袴(フジバカマ)、桔梗(キキョウ)※

またこの時期の食べ物としては、ナシ・イチジク・すだち・ぶどう・クリ・サンマがあります。

秋の味覚の代表であるサンマ(秋刀魚)美味し季節でもありますが、ここ数年間漁獲量が落ち込み高嶺の花となってきているのが残念です。



切手は2000年台湾発行の「二十四節気切手」の中の一枚で、処暑が描かれています。


処暑.台湾.2000.jpg


切手は2018年中国発行の「二十四節気(秋)切手」の中の一枚で、処暑が描かれています。


処暑.中国.2018.jpg


切手は2004年日本発行の「ふるさと切手 東京都」の中の一枚で、ハギが描かれています。


ハギ.2004.jpg


切手は1991年日本発行の「ふるさと切手 鳥取県」で、20世紀ナシが描かれています。


20世紀ナシ.1991.jpg


切手は2002年日本発行の「ふるさと切手 四国のみのり〜県花」の中の一枚で、徳島のすだちが描かれています。


すだち.2002.jpg


切手は2017年日本発行の「秋のグリーティング切手」の中の一枚で、七輪で焼くサンマが描かれています。


サンマ.2017.jpg


切手は2018年日本発行の「秋のグリーティング切手」の中の一枚で、クリが描かれています。


クリ.日本.2017.jpg>
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2024年08月17日

梅毒に悩んだ著名人−21.−加藤清正−

加藤 清正(1562〜1611)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で肥後熊本藩初代藩主です。

彼は豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人です。

秀吉に従って数々の武功を挙げ、肥後北半国の大名となり秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。

築城の名手といわれ熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わっています。

更に彼は土木の神様とも呼ばれ、白川、菊池川、緑川、球磨川における治水・利水事業を図り、今日の熊本の繁栄を築き上げています。

清正の死因は『当代記』の2年後に梅毒(当時は唐瘡と呼ばれた)で死んだ浅野幸長の項に、彼と同様に好色故の「虚ノ病」(腎虚(花柳病)か)とされている。

その一方で家康またはその一派による毒殺説もあります。

特に暗殺説の中でも二条城会見での料理による毒殺、毒饅頭による毒殺説が世間に広まっています。



切手は2008年日本発行の「熊本城本丸御殿フレーム切手」で、右上に加藤清正像が描かれています。


加藤清正フレーム切手.2008.jpg


風景印は熊本北帯山郵便局(〒862−0924熊本県熊本市中央区帯山4−43−1)のもので、2020年7月3日使用開始され、熊本市を象徴する「熊本城」、築城した城主「加藤清正」の像を向かい合わせに配し、城の麓には、肥後国熊本藩6代目藩主細川重賢が『昆虫胥化図』に観察記録を残した蝶である「ツマグロヒョウモン」、及びその食草であり地域の愛好家に育てられている「ヒゴスミレ」が描かれています。


加藤清正風景印.熊本北帯山.png


風景印は熊本御幸郵便局(〒861-4172熊本県熊本市南区御幸笛田3-18-10)のもので、1999年1月1日使用開始され、清正堤と加藤清正像が描かれています。


加藤清正風景印.御幸.jpg
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2024年08月10日

梅毒に悩んだ著名人−20.黒田官兵衛−

日本で梅毒が初めて記録されたのは1512年のことで、歌人・三条西実隆(1455〜1537)の『再昌草』に記されています。

この頃は梅毒の治療薬もなく日本国内では昭和初期まで猛威を振るていました。

"自惚れと瘡気(かさけ)の無い者はない"と表現されているように、上は大名から下々の町人に至るまで梅毒は大流行していました。

1940年代以降ペニシリンを中心とする抗生物質による治療が行われるようになり、梅毒はほぼ完治する病気となり、ほぼ根絶されかけましたが2003年から増加傾向となり2016年現在日本国内では大流行しています。

日本国内に梅毒が入り込み現在までに多くの著名人が梅毒に悩まされそして、命を失っています。

今回は豊臣秀吉の名軍師と言われた黒田官兵衛(1546〜1604)を取り上げてみました。

彼は1604年に病没しますがその死因は梅毒が有力視されています。

黒田官兵衛は、荒木村重によって有岡城に監禁され足が不自由になった原因は梅毒性骨髄炎、そして頭に腫れ物ができて頭巾で隠していたのは、梅毒第三期のゴム腫の可能性が高く、そして晩年精神錯乱状態だったのは梅毒第四期の脳障害によるものであると医史学者は推測しています。

豊臣秀吉は、晩年「黒田の瘡天窓(かさあたま/梅毒で髪の抜けた頭)は何にとも心を許し難きものなり」と言っています。


切手は2014年日本発行のオリジナルフレーム切手「軍師 黒田官兵衛ゆかりの街 八幡西区」で、左に頭巾を被った黒田如水(黒田官兵衛)が描かれています。


黒田官兵衛.2014.png


切手は2013年日本発行のオリジナルフレーム切手「中津で天下の夢を見た黒田官兵衛」に収められた一枚で、黒田如水画像(黒田官兵衛)が描かれています。


黒田官兵衛.フレーム切手.2013.jpg
posted by 血液の鉄人 at 08:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 医学切手 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする