2023年11月16日

ホロコースト−9.ニュルンベルク国際軍事裁判−

ニュルンベルク国際軍事裁判は、第二次世界大戦後の1945年11月20日から1946年10月1日にかけて、ドイツのニュルンベルクで行われた、ナチス・ドイツの戦争犯罪と人道に対する犯罪を裁くための国際軍事裁判です。

ニュルンベルクは、1933年以来、国民国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が毎年の大会を開催した場所で、更に1935年にはナチス=ドイツがユダヤ人絶滅を宣言したニュルンベルク法の制定された場所であった。

このため連合国がこの地を選んだのはナチスの過去を断罪する強い決意表明であったとされています。

この裁判は、連合国(アメリカ、イギリス、フランス、ソビエト)によって組織され、22人のナチス・ドイツの指導者が起訴されました。起訴された罪状は、平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪の3つです。

裁判は、100日間にわたって行われ、膨大な証拠に基づいて審理が行われました。その結果、12人が有罪判決を受け、うち10人が絞首刑に処されました。

ニュルンベルク国際軍事裁判は、戦争犯罪や人道に対する犯罪を裁くための国際法の基礎を築く画期的な裁判でした。この裁判によって、戦争犯罪や人道に対する犯罪は、国際法の下で罰せられるべき犯罪であると国際社会に認知されるようになりました。

ニュルンベルク国際軍事裁判の主要な成果は、以下のとおりです。

・戦争犯罪や人道に対する犯罪を裁くための国際法の基礎を築いたこと

・ナチス・ドイツの戦争犯罪や人道に対する犯罪を世界に明らかにしたこと

・戦争犯罪や人道に対する犯罪を二度と繰り返してはならないというメッセージを世界に送ったこと

ニュルンベルク国際軍事裁判は、国際法の歴史において重要な裁判であり、その影響は現在も続いています。

切手は2016年ロシア発行の「国際ニュルンベルク軍事法廷70周年記念小型シート」で、切手には裁判か開かれたホール、シート面には地に左からソ連、イギリス、米国、フランスの国旗、ソ連正判事イオナ・ニキチェンコ(左上)、ソ連主席検事ロマン・ルデンコ(右下)、裁判所と訴訟文書などが描かれています。


ニュルンベルグ裁判.ロシア.2016.jpg
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2023年11月11日

ホロコースト−8.水晶の夜−

水晶の夜(クリスタルナハト)とは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動、迫害を言います。

水晶の夜という名前は、破壊された店舗のガラスが月明かりに照らされて水晶のようにきらめいていたことに由来しています。

ユダヤ人に対する暴力、ユダヤ人店舗の略奪、破壊が行われユダヤ寺院のシナゴーグも襲撃、放火され、店舗やシナゴーグの破壊されたガラスが夜の月明かりに照らされて「水晶」のようだったので「水晶の夜(クリスタルナハト)」と呼ばれている。

当時、多くのドイツ人がユダヤ人迫害に加担、もしくは見て見ぬふりをしていました。

「水晶の夜」ではドイツとオーストリアの1400のシナゴーグ(ユダヤ教の教会)が襲撃され、そしてこのことからユダヤ人の多くが不当に逮捕されて強制収容所に移送されていくことになります、これがホロコーストにおけるユダヤ人への組織的暴力の始まりだったとされています。

暴動の主力となったのは突撃隊(SA)のメンバーであり、アドルフ・ヒトラーや親衛隊(SS)は暴動を止める事なく、傍観者として傍観していました。

これはナチス政権による官製暴動とも言われています。

この事件により、ナチスドイツにおけるユダヤ人の立場は大幅に悪化し、後に起こるホロコーストへの転換点の一つとなった。

ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(1900〜1945)は、ナチスが政権を把握した後全ドイツ警察長官やヒトラー内閣内務大臣などを歴任し、ドイツの警察権力を掌握し、第二次世界大戦中にはヨーロッパのユダヤ人に対してホロコーストを組織的に実行した人物です。

ヒムラーは強力な秘密国家警察「ゲシュタポ」の形成に一役買い、これらの私服警察は、ナチス政権の法律や政策に従わない者や政敵を見つけて逮捕するため、ドイツ国内の至る所で冷酷かつ残酷な方法を使用しました。

ホロコーストで殺害されたとされるユダヤ人は600万人に上るとされています。

ヒムラーは第二次世界大戦終戦時に米国との講和交渉を試みたが失敗し、捕虜になった後に自殺しています。

切手は1988年イスラエル発行の「水晶の夜50周年記念切手」です。


水晶の夜.イスラエル.1988.jpg


切手は1990年東ドイツ発行の「水晶の夜50周年記念切手」です。


水晶の夜.東ドイツ.1990.jpg



切手は2016年マダガスカル発行の「第二次世界大戦小型シート」で、切手にはヒムラーが描かれ、シート時には捕虜収容所を見回るヒムラーとその部下、当時のニュース映画、ナチスドイツのプロパガンダーポスターなどが描かれています。


ヒムラー.マダガスカル.2016.jpg

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2023年11月07日

ホロコースト−7.アウシュビッツ収容所−

1940年から1945年にかけてドイツが占領下においた現在のポーランド南部オシフィエンチム市郊外に作られた、強制的な収容が可能な施設群の総称です。

アウシュビッツ第1強制収容所、アウシュビッツ第2強制収容所(ビルケナウ)、およびアウシュビッツ第3強制収容所(モノヴィッツ)の3つの収容所から構成されていました。

アウシュビッツは、火葬場、絶滅収容所、および強制労働収容所がある強制収容所の集合体でした。

ナチスドイツが第二次世界大戦中に国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所で収容者の90%がユダヤ人で、ここで虐殺された人は150万人とされています。

1945年1月27日ソ連軍がアウシュビッツ強制収容所を解放しています。

ここでホロコースト否認について述べたいと思います。

ホロコースト否認とは、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人の組織的虐殺である「ホロコースト」の一部もしくは全体を否認する主張(なかった)することで、これを唱える人々を"ホロコースト否認論者"と呼びます。

"ホロコースト否認論者"たちは、ホロコーストはなかったと主張し、強制収容所は存在していなくて、ガス室もなく、ユダヤ人虐殺もなかったと主張しています。

"ホロコースト否認論者"たちは、ユダヤ人はドイツから多額の賠償金を得るため、そしてイスラエルの建国を正当化するために「ホロコースト伝説」を必要としたとも主張し、それぞれの利害のためにホロコーストを利用する第二次世界大戦の戦勝国、ユダヤ人、そしてイスラエルによる大規模な陰謀とも主張しています。

そしてニュルンベルク国際軍事裁判で提出されたすべての証拠もことごとく否定しています。

※ニュルンベルク国際軍事裁判とは、1945年8月8日の連合国協定に基づきドイツの戦争指導者24人に対して行った裁判で、ドイツのバイエルン州北部の都市ニュルンベルクで開廷された米英仏ソ四カ国による国際軍事裁判※

※狭義の戦争犯罪に留まらず、"平和に対する罪"・"人道に対する罪"を含む広義の戦争犯罪規範が、侵略戦争の計画準備遂行やホロコースト犯罪に適応され、22名の被告中絞首刑12名を含む19名に有罪判決が下された※

当然のことながら、"ホロコースト否認論者"たちは、歴史的事件の証拠を無視し、ホロコースト全体の実在性を否定しています。

米国では憲法修正第1項で言論の自由が保障されていて、ホロコーストを否定することやナチスと反ユダヤ主義の憎悪論を展開することは違法ではありません。

しかしドイツやフランスなどのヨーロッパ諸国では、ホロコーストの否定は犯罪で、ナチスとネオナチの出版は禁止されています。

当然のことながら日本においては憲法で言論・出版の自由は保証されていますから、ロコーストを否定したり、ナチスとネオナチの出版しても処罰されません。

否定論者は多く存在し、中でもエイズ否定論は特に有名です。

1979年、第一・第二強制収容所の遺構は第二次世界大戦における悲劇の証拠であり後世に語り継ぐべきものとして、ユネスコの世界遺産に登録された。

切手は1964年フランス発行の「ナチからの開放20年記念賦課金付切手」で、収容所の監視塔と鉄条網を持つ囚人の手が描かれています。

ナチからの開放.フランス.1964.jpg


切手は1975年ポーランド発行の「アウシュビッツ強制収容所の解放30周年切手」で、アウシュビッツの文字とアウシュビッツ収容所の鎖が断ち切られて解放を表し、解放の年1945年の数字が描かれています。

アウシュヴィッツ.ポーランド.1975.jpg

切手は1995年セントビンセント・グレナディーン発行の「第二次世界大戦記念小型シート」で、シート面中央にアウシュビッツ第ニ収容所(ビルケナウ)と鉄道引き込み線が描かれています。

アウシュヴィッツ.セントビンセント.1995.jpg

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2023年10月31日

ホロコースト−5.オスカー・シンドラー−

ホロコーストとは、ナチス政権とその協力者による約600万人のユダヤ人の組織的大規模な迫害および殺戮を意味します。

「ホロコースト」は「焼かれたいけにえ」という意味のギリシャ語を語源とする言葉です。

オスカー・シンドラー(1908〜1974)は、ドイツ人の実業家で第二次世界大戦中ナチスドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、自身のエナメル工場で雇用していた1,200人を虐殺から救った人物です。

オスカー・シンドラーは、1993年スティーヴン・スピルバーグ(1946〜 )監督作品の『シンドラーのリスト(Schindler's List)』で一躍知られるようになりました。

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1949年シンドラーと彼の妻はアルゼンチンに移住し、962年イスラエルのヤド・ヴァシェムは戦時中の救済努力を讃えてシンドラーに「諸国民の中の正義の人」という称号を授与しました。

※ヤド・ヴァシェムは、ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)の犠牲者達を追悼するためのイスラエルの国立記念館で、エルサレムのヘルツルの丘にあります※

杉原千畝も1985年にヤド・ヴァシェムより「諸国民の中の正義の人」の称号を贈られています。

切手は2008年ドイツ発行の「オスカー・シンドラー生誕100年切手」で、オスカー・シンドラーの名前とともにタルムードの言葉『一人の人間を救う者は世界を救う』が記載されています。


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2023年10月28日

ホロコースト−4.命のビザ杉原千畝−

1939年杉原千畝(1900〜1986)は、リトアニアの在カウナス日本領事館の領事代理に着任しナチスドイツの迫害から国内脱出をはかるユダヤ難民へ自分の独断でビザを発給し多くのユダヤ人を助けています。

1940年7月18日の朝、ビザの発給を求めて多くのユダヤ人難民がリトアニアの在カウナス日本領事館に続々と押し寄せてきました。

この時の様子を杉原は、『6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってきたことから、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った』と、述べています。

杉原が発行したビザは2139枚で、そのビザにより日本へ行き命の助かったユダヤ人は約6000人です。

1985年1月、イスラエル政府からユダヤ人を救った人だけに贈られる「諸国民の中の正義の人」の称号を授与され、「ヤド・バシェム賞」を受賞していますがこれらの賞を受賞したのは日本人では一人だけです。

現在でも、エルサレム郊外のベート・シェメッシュの丘には千畝の顕彰碑が建っています。

外務省訓令に違反して、ユダヤ人難民にビザを発給し続けた杉原は戦後の1947年、外務省を辞めさせられています。

リトアニアの人々には千畝(ちうね)という名前が発音しにくかったことから、千畝は、呼びやすいように名を音読みにして「SEMPO:せんぽ」と名乗っていたため、リトアニアでは「SEMPO SUGIHARA:センポ スギハラ」という名前が定着していました。

戦後、リトアニアの人々が「センポ スギハラ」にお礼を言いたいと日本の外務省に問い合わせても、本名ではなかったため、外務省はそのような外交官はいないと答えるしかなかったとされていますが、当時のリトアニアの在カウナス日本領事館の領事は杉原千畝であったことはわかっていたはずですが、これをあえて存在しないと回答したのは当時の外務省の事なかれ主義・怠慢としか言えないと私は思っています。

彼の名誉回復は実に戦後46年目にやっと回復されることになります。

オスカー・シンドラー(1908〜1974)は、ユダヤ人を自分の商売に使っていたことからして純粋にユダヤ難民を救済したという意味では杉原の行為は桁違いに大きいと思います。

杉原を扱った代表的な作品は映像としては、以下が挙げられます。

1.テレビドラマ『命のビザ』(1992年12月18日、フジテレビ、主演:加藤剛)

2.ドキュメンタリー番組「その時歴史が動いた『6000人の命を救った外交官 杉原千畝 ビザ大量発行決断の時』」(NHK、2001年2月17日)

3.テレビドラマ『日本のシンドラー杉原千畝物語 六千人の命のビザ』(2005年10月11日、読売テレビ、主演:反町隆史)

4.映画『杉原千畝 スギハラチウネ』(2015年、日本、主演:唐沢寿明)

2015年10月13日、トアニア・カウナスでワールドプレミアが行われ、杉原の家族やカウナス副市長が出席し、450席の劇場は満席で50人の立ち見が出た他、上映終了後には5分間のスタンディングオベーションが起き絶賛されています。

リトアニア政府はカウナスに昔のカウナス日本領事館のあった通りを『スギハラ通り』と命名しています。


『杉原千畝 スギハラチウネ』(2015年、日本、主演:唐沢寿明)DVD


杉原千畝.DVD.png


切手は1998年イスラエル発行の「ユダヤ人を救った5人の外交官切手の初日カバー」で、切手右から二人目に杉原が描かれています。

この初日カバーには、切手の上から押される発行当日の消印の他に、5つのスタンプ跡が印刷されていますが、このスタンプこそ彼ら5人の外交官が発行し続けたビザのスタンプです。

杉原の描かれた切手の下部のタブにも彼の発給したビザの一部とスタンプが描かれています。


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切手は1998年イスラエル発行の「イスラエル建国50年記念連刷切手」で、左からジョルジョ・ペルラスカ(イタリア)、アリスティデス・デ・ソウザ・メンデス(ポルトガル)、カール・ルッツ(スイス)、杉原千畝(日本)、セラハティン・ウルクメン(トルコ)の5人の外交官が描かれています。


杉原千畝.イスラエル.1998.png



切手は2000年日本発行の「20世紀デザイン切手シリーズ、第9集」の中に収められた杉原千畝の横顔と共に発給したビザの一部分、イスラエルより送られた諸国民の中の正義の人」の称号を授与された「ヤド・バシェム賞」のメダルが描かれています。


杉原.日本.2000.jpg


切手は2002年ギニア発行の「著名人切手」12枚の中の1枚で、杉原千畝が描かれています。


杉原.ギニア.2002.jpg


切手は2004年リトアニア発行の「著名人切手」で、杉原千畝の肖像写真が描かれています。


杉原.リトアニア.2004.jpg


切手は2011年モザンビーク発行の「杉原千畝没後25年記念小型シート」で、杉原千畝が描かれています。


杉原.モザンビーク.2011.jpg


切手は2011年日本発行の「杉原千畝フレーム切手」で、杉原千畝・命のビザなどが描かれています。



杉原千畝.フレーム切手.2011.jpg



posted by 血液の鉄人 at 08:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 医学切手 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする